2011/07/29 (Fri) 相対的な幸不幸

今朝の新聞の投書欄か何かで「空き巣に遭ってショックだったが、周りの人間が『震災で全部流されちゃった人よりマシだよ』と慰めてくれた」みたいな記事を見ました。この投書自体をどうこう言うつもりはなくて、普段からなんとなく違和感を感じていた事を考えるきっかけになったに過ぎないのですが、このように自分が嫌な目や悲惨な目に遭った時、自分よりもっと悲惨な人の存在と比べて、その人と比べたら自分はまだマシ、と心理的ショックをやわらげようとする事って、よく見聞きするよね。

確かに、人の心のメカニズムを考えた場合、こういう方法は手っ取り早く自分の心を癒すのに効果的ではあると思う。

しかし、もう少しよく考えてみると、その時「自分より悲惨」「自分より下」と位置づけられた人が、仮にその事を知ったらどう感じるだろうか。まあ、さすがに本人に聞こえる状況でそういう事をいう下衆は稀とは思いますが、果たしてそうやって自分より悪い境遇の人と比較して、相対的に自分の地位を上げる行為というのは、気高いと言えるのだろうか。

本質的に、これって、昔のインドのカースト制度とか、日本の士農工商の下に設けられた「非人」「穢多(えた)」と同じ事じゃんね。最も過酷な労役を強いられる身分の下に、更に下を設けて、「お前たちよりもっと下がいるのだから、お前たちはまだマシなのだよ」と、不平不満を封じ込めるのがその身分制度の本質と思います。

上述の通り、人の心のメカニズムとしては、確かに効果的なのだと思うし、だからこそ昔から存在するのだとは思いますが、それを精神的に乗り越えてきたのが人の歴史ではなかったか。物理的な身分制度というものは、その頃から比べれば確かに激減したのだろうけど、このように、現代であっても、その根本、つまり、「自分の幸不幸を相対的に(他人と比べて)決める」という傾向は、実はちっとも進歩していないのではないかと思うのです。

つらい目、悲しい目に遭ったら、自分より下を探すことなく、粛々とそれを受け止める。もしくは、他人から見たらちっぽけに映るかも知れないけれども、日々の生活で少しでも良い事があれば素直にそれを喜ぶ。それが気高い生き方と言えるのではなかろうか。

さて、ここまで批判的に述べた自分はどうかと言うと、大体においてその自信はあるんだけれど、100%完全とは言えないかも知れない。

例えば、こういう古典的な実験があります。被験者数人に1万円を配り、うち一人にだけ千円を配る。何かの労働の対価とかではなく、単なるプレゼントとしてです。「自分が良ければ、他人がどうであろうが関係ない(幸不幸は相対的ではなく、絶対的なものである)」と言い切れるのであれば、タダで千円を得た事を素直に喜べばいいのですが、大抵の人は「なぜ自分だけ1万円でなく千円なのか」と不満に思うのだそうです。俺はこの実験を受けた事はないけれども、果たして素直に千円を喜べるかどうか。

このように、自分とて完全である自信はないのだけれど、せめて、自分の幸不幸を相対的に決める事はさもしい事である、という認識ぐらいは持ちたいものです。





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